Wednesday, September 11, 2013

碧騒346 もう一つの破顔微笑

346 もう一つの破顔微笑  野坂昭如は、繰り返し焼跡に戻っていかずにはいられない。そこで採取するのは、狐につままれたような正午の人間離れした玉音放送よりも、なんだか分からないアメリカひじきよりも、カンコの中から零れる妹の(火垂るの)骨、金魚の糞(のようにしていたのに大柄な法子の知らなかった痩せた秀子のいくさと、その戦のつづき)、(来る月も来る月も神戸銀行六甲道支店に振り込まれる一枚の聖徳太子をきっかり引き出しては同じ文面の礼状を出す、そうした規則正しい惰性のみを支えに輪郭を持ちこたえている、というより音もなく既にして崩壊しているのに気づかない)シャリマン(舎利万きぬ)のケロイド、ブドージョーキューキン(葡萄状球菌)、預金通帳の間の十円札、そうしたガラクタであり、幾度訪れても焼跡は8月15日の炎天のように隠れないのに、夢のようにどうしても公然としない密室に蔵い込まれた、交換価値のない、一般化の追いつかない私物であり、それなのに変に光り出して、しかしその光を認識するのではなく、その光に照らし出されて照れてしまう。認識されたと分かって、はにかむ。照らし出されるに値するようで、値しないようで、こうした葛藤は、破顔微笑に酷似している。  「アメリカひじき」が奇妙にはれがましいのは「アメリカ晴れ」の精であるが、それは、大きく見せなくては生き延びられないと目一杯背伸びし踏ん張った卑屈と貧困と矮小を公然と照らし出すようで、実は、決して登録されない光、その光に照らし出されれば照れてしまい、照らし出されるに値するようで、値しないようではにかんでしまう、そうした光を浴びては、アメ公に殺られた父の位牌に空から落下傘で降りて来た豊かなアメリカの物資をほんの少し供えることが卑屈でも貧困でも矮小でもなく、カムカムエブリボディなどと発声したりもする光、日本晴れにはない、何か狐につままれたような狸囃子のような変に超越した光なのある。  「「ええやんか、ゴーゴーでのうても」背筋のばして、しっかと腕を組み合う。「私、女のステップしかしらんから」すいとブルースを踊り出し、たちまち人波にぶつかったが、委細かまわず、「あんたらなんやの、少しくらいこの小母ちゃんにも道ゆずりなさい」堂々と押し分けはねとばし、あっけにとられて若者たちはながめていたが、あきらめてフロアの中央をゆずり渡す、バンドもおもしろがったかピアノがリズムをことさら高く奏で、二人ひょこひょこおどけさえして躍りつづける。お互いひたと眼をみつめあい、ときおり少女のように首をかたむけ、かと思えば、恋人同士のようにひしと抱きあって、大胆にスピンをみせる、せめてこの時ばかり、かけらすらなかった青春を、追い求めるように、大柄な法子と、痩せた秀子は躍りつづける。」(「同行二人」)  秀子の混血の娘文子と法子の息子の邦夫は駆け落ちしてしまったが、法子と秀子が踊りつづけるのは、息子と娘に器官を延長するのであり、それは、更に器官を延長するように(しかも遡上するように)月光の海辺に白い馬を対い形成して光り出し、何か見てはならないものの隠喩に照らし出されるに値するようで、値しないようで、踊りつづける。  それは、大火傷を負って顔と上半身が繃帯でぐるぐる巻きになった養母舎利万きぬが12歳の善衛に小水の世話をしてもらって「すまんな、すんません」という、何か見てはならないものが声になった変な光に、或いは、きぬの終の棲処、というより最終状態で、今にも、というよりとっくに瓦解しているはずなのにこらえている「徳井アパート」の、その、他の誰にも見えない光に、照らし出されるに値するような、値しないような、微笑なのである。

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