碧騒351 冒険としての身代わり
351 冒険としての身代わり
イザベル(「或る婦人の肖像」H.James )は、自由であることの、自由は自ら蝉脱することの、その命令の生贄である。囚われてはならないという要請は、囚われることを打ち消さない。オズモンド氏の蜘蛛の巣にかかったままになることにも寛容なのである。イザベルとオズモンド氏の結婚は、イザベルを知る人々には意想外のものであったが、自由に矛盾しているのではない。自由とは打ち消す技術であり、自由に照らし出されて照れ、照らし出されるに値しないようではにかむことこそは、この命令に忠実なのである。55回の窃視を通して、イザベルがふるえているのは、自由であることに面して操られていることに面してしまうからである。それは、オズモンド氏の娘パンジーの表情、物言い、立ち居振る舞いにオズモンド氏の趣味が猛威を振るっている、その、同じ猛威に妻として曝されていることに耐えながら、実はパンジーの生みの母がイザベルをオズモンド氏へ導いたマダム・マールであったこと、従ってオズモンド氏との結婚へ誘導していた陰謀の不気味な光に照らし出されて赤面の思いであることとは違う。秘密であるのはパンジーの出生ではなく、自由とは身代わりであることであり、その要請の一つの解として、イザベルの冒険は従兄ラルフの器官の延長であったということである。イザベルは身代わりであることを打ち消すように、ふるえる。イザベルの冒険は思考が他の誰かから届くように頭を延長していたが、55回の窃視に要約され、ラルフが代表する覗き穴に実は思考を盗まれていて、しかも、その息を殺した追跡の気配にイザベルが隠れなく照らし出されただけでなく、イザベルに覗き返されてどっと気配づいたのである。


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