碧騒356 発熱、放心
356 発熱、放心
よちよち歩きし始めた子供が誰もそばにいないのに突然ぱちぱち拍手する。この、後発模倣と呼ばれているものは、unlearn であり、何かもどかしい度忘れ状態の抽象が具体としてもどくのである。喉元まで上り詰めて来ている抽象が命令に転じて、この、もどきは服従であるが、この、もどしは清冽である。本居宣長が「吾物」と呼ぶ覚醒は、単に認識ではなく、むろん我意でもなく、抽象がもどされ、媒体であることが気配づくのである。
同じようにして、石牟礼を通してうわさは(水俣湾に船を繋いでおけば牡蛎殻がつかない、といったうわさは)抽象の極点からもどされ、奇病が突然ぱちぱち拍手し始める。「わが水俣病」は何も打ち消さないために地獄であるが、おののくほどに清冽である。
擬態は発熱である。環境の網膜像を体表に転写して環境に溶け込む場合にも熱平衡なのではない。石牟礼が擬態の気配を消せないで年月と化しても、不知火海との区別がおかされても、ダム湖に沈んだ村の気配に被曝しても、それは発熱(「状況没入型アレルギー性発熱」)であり、抽象の極点である。
水俣病に侵された身体が解剖されて、乳房、心臓、小腸が放心しているのも、それが、擬態の気配の消えない具体の極点で石牟礼が発熱しているからである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home