Monday, October 14, 2013

碧騒357 首都が海溝に沈んでいる気配、解剖の気配

357 首都が海溝に沈んでいる気配、解剖の気配  具体の極点としての放心、それは何も潜伏してはいられずにざわめくのであるが、その、場所があふれ出した最終状態の、その断面としての擬似奥行が、劇中劇的陰謀に転写される。首都が海溝に沈んでいる気配に被曝するのは最終状態があふれ出したのであるが、その断面が、「生きそこなっているか、死にそこなっているかのあわい」(「苦海浄土」石牟礼)で、みせもの(被窃視)状態に曝され「私」というものの中間突破が頓挫してしまう断面や、この世と何も打ち消さない地獄との融通が入れ子状に後退して経験が宙に浮く断面である。  水俣病はまぼろしであるまいと足掻くほどまぼろしじみ、また水俣病は前近代的器官の延長が近代的器官の延長に蹂躙されたというより、器官の延長としての分業に媒介されて生活は形をとる(限界づけられる)のであるから、水俣病もそうした分業に巻き込まれる限りで生きられる器官の延長なのであり、生きられる水俣病は「生きそこなっているか、死にそこなっているかのあわい」から抜け出せない。水俣、水俣病、水俣病事件、その一連の諸相は不随意に演じられる。それは、暗黒舞踏が八狐憑きに地獄から管を通されている媒体性とは別の次元で、自由を剥奪され、みせもの(被窃視)状態に引き据えられて息を吹きつけられている。訴訟派は自発的に巡礼姿を鎧ってまぼろしであることから藻掻き出ようとするのではあるが、劇中劇的に包囲する審判の気配や解剖の気配(「太か爼」の気配)に、放心して首を差し伸べ、それは、はにかむのかおののくのか。  「審判」(F.Kafka )のKも追跡の気配に包囲されたJ.J.Rousseauも精神分析されたがっているが、水俣病は解剖されたがっている。光源氏には、女の出現は思いがけなく隠沼に出てしまうような、微妙にずれながらも何か約束があったようなことなのであるが、石牟礼には奇病の出現が何か約束じみていて、その執拗な記録は、無心に腑分けした腹の中から繰り返し赤ん坊を取り上げる如くに、繰り返し隠沼に出てしまうというふうなのである。

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