Tuesday, December 10, 2013

碧騒376 光の励起

376 光の励起  既視感(二重の通過)として報告される経験(の頓挫)は、中間を突破しないモノの局在に触れるのである。通俗の一般的語彙に解消した既視感は漠とした類似の経験を報告するに過ぎないが、モノの局在は、即興の頓挫であって、同種のものが経験されるのではないし、同一のものとも何か違う。同一のものに面してそのことが疑わしくて、心臓を鷲掴みされるのである。  黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)にぞっとし、立ち竦むのは、そこで突如この世が終わっているために一歩も進めないのである。ヨモツヒラサカはこの世を占める物としての場所でも、物が占める場所でもない。顕し国と黄泉の国の境は場所と場所の境ではなく、場所を占める物の現在(の惰性)と場所があふれ出したモノの局在との間の振動であるから、精々断崖、裂目、半陰影などと次元を縮めて報告されるものの、同種のものにも同一のものにも到達しているのか疑わしく、この、現在というものの(中間突破の)疑わしさが二重の通過である。つまり、ヨモツヒラサカの立ち竦む経験は既視感であるだけでなく、他ノ誰カニ降リカカッテイル、或いは、百年ニヒトタビ姿ヲ顕ワス、というふうに報告されもするような経験(の頓挫)、光の励起なのである。

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