Friday, December 13, 2013

碧騒377 衝動の胴震い、衝動の違反

377 衝動の胴震い、衝動の違反  八俣大蛇はスサノヲが場所となって潜伏したスサノヲの媒体であるが、場所があふれ出しているためにその尾は何か光るモノを孕む。八俣大蛇とスサノヲの区別はおかされていて、あふれ出しているのは八俣大蛇でもあり、分節は頓挫している。  イザナミの言葉に照らし出されたイザナギが「物へゆく」のに頓挫する。イザナギとイザナミは、対いの衝動を代表して岐れるというより、モノが一つの解として映し出す霊的衝動と物が占める場所となって潜伏する衝動とに分岐するのであるが、イザナミの違反は、場所があふれ出して媒体としてのモノの気配を消せないこと、個も種も本質も頓挫し、物が直しさも寿命も鎧わないことである。この違反のために、イザナギは頓挫する。  イザナギの頓挫は、「物へゆく」ではなくモノへ出てしまうのである。それは、連れ戻される如くであるが、物とモノとの間に振動するのであり、振動ではあるが頓挫の如くなのである。スサノヲに呼び出され、照らし出されたアマテラスの混乱も「物へゆく」に頓挫し、高知らすに頓挫するのである。スサノヲのイザナミを追う慕情の実体は、衝動の違反、この世のものが場所を占めて直しさと寿命を鎧い、影を落とし、鏡に映るようにし、場所となって姿を晦ます衝動に違反することの反復である。  そもそも、スサノヲが川辺に漂い寄る椀と箸から川上に誰かが棲むのを知って、忽ち頓挫、隠沼の気配がして、八俣大蛇も生贄の姫もそのヌシの如く息づき、声を吹き替えられ、形を顕わしても正体は隠す。鏡がアマテラスの神体ならば、隠沼はスサノヲの神体である。この神体がまつろわぬヲロチも光るモノも孕み、スサノヲを誘う。スサノヲと呼ばれる衝動は「物へゆく」衝動に違反してまつろわぬモノへ導かれる振動であり、物が光り出す或いは美味そうなモノ、隠沼(コモリヌ)の気配とは場所があふれ出すのである。スサノヲが川辺に漂い寄る「ちょうどその頃」川上に誰かが息づく。場所があふれ出すのを「ちょうどその頃」は抽象している。この抽象こそは物語る衝動であり、スサノヲと呼ばれる衝動の抽象である。  アマテラスの神体に隠沼は映らない。それは物が場所を占める顕し国であり、中間突破する現在の惰性は、それが反映であることの気配を消す。その限りで太陽は顕し国を占める。アマテラスと呼ばれる衝動は、イザナギの目の禊に由来するのであるから、「物へゆく道」であり、場所があふれ出さないように場所となって姿を晦ます。太陽系が顕在化するのも「物へゆく道」に導かれていて、しかしいつでも胴震いして「物へゆく」衝動に違反しかねない。この顕在化、惑星の浮上は、場所があふれ出すことと区別がつかないからである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home