碧騒390 葛藤―曖昧、おどむ―直る、影がおどむ(光が禍る)
390 葛藤―曖昧、おどむ―直る、影がおどむ(光が禍る)
赤熟する稲穂は衝動としての太陽を写し出す痕跡であるように、狭霧が涌くのは誰かが息衝き余る気配であるように、物は霊的なものの痕跡であり、霊的なものは物(霊的なものの媒体(しるし))が占める場所となって影がおどむ。
オオモノヌシとコトシロヌシと呼ばれる衝動の、その葛藤の分割は、物としるしの解離で、影がおどむ葛藤が曖昧であることに変わる。それは、構造が変わるような変態ではなく、解離することで、葛藤がそれと知らず使いこなされるようになる擬態である。
物の意味は物の占める場所であり、本物としての「モナリザの微笑み」が「私」じみて意味があるかの如く影がおどむのは、その意味が、本物が打ち消した本物ではない「モナリザの微笑み」の予定調和的な全容であるからである。この、本物ではない「モナリザの微笑み」の全容の痕跡が本物であり、本物はその意味を場所のように占め、その意味は影がおどむように気配づいて本物を責め、本物を狭め、本物はしるしでしかない。本物が占める意味の予定調和的な全容は「モナリザの苦笑い」や「モナリザの大笑い」などを含むが、どれも本物の意味ではなく、しかしその予定調和的な全容は本物の意味なのである。本物は本物が占める意味の予定調和的な全容を代表して写真のようなものであるが、本物であることと本物が霊的なものの痕跡(しるし)であることが解離する限りで、本物は本物ではないことから変脱し、直る。
「モナリザの微笑み」が薄気味悪く迫るとすれば、それは、「モナリザの微笑み」が本物として脅かされているのである。贋物というのではなく、本物であることに面して(本物デアルノニ)宙に浮いてしまうのである。これは、贋物も本物も鎧う直しさや寿命が解けて黄泉が返るようなものである。
人の手から人の手へ渡る「モナリザの微笑み」に影がおどむのは、光が禍るのである。


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