Monday, January 27, 2014

碧騒392 中間の出現、中間の胴震い

392 中間の出現、中間の胴震い  物としるしが解離することで、しるしは中間に移る。これは物としての場所が出現して、場所を占める物ではなくしるしとしての物が漂い出すことでもある。物が占める場所は、物としての場所ではなく、物の意味(霊的興味)の潜伏である。しるしが中間に彷徨い出るのは、その意味を探すのであるが、早くも霊的興味は干上がっている。  物と場所の解離、物としるしの解離、同一のものと同種のものの解離、物が占める場所と物としての場所の解離を通して、中間が出現し、器官の延長としての分業が起こる。アメノコヤネと呼ばれる衝動はその子孫が中執り持(中臣)であるように中間が占める場所(霊的興味)である。中間は場所というより位置(地位)である。分業は階級を形成し、階級は中間を占める。しるしとしてのウミサチヒコが探し出した意味(地位、身分、役割)は、守護と俳優、吠声をあげることとわざおぎであるが、それは、物が媒体であることが中間に器官の延長として再発することも写し出している。吹き替えられることや影がおどむことが打ち消され、しかし疚しさとなって潜伏した媒体性が曖昧な中間性となって再発して、呪詛は解けないというふうだ。ウミサチヒコ的なものは、選択できないヤマサチヒコ的なものの、その嫉妬、放心、被拉致、不正義の症状を解離しようとして祟り返される、中間の胴震いである。日常の惰性は中間のおぼつかなさを慢性的に孕み、ひたすらな分業が神懸かりの社会的形態であることを隠している。

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