Wednesday, February 05, 2014

碧騒395 潜伏する予期、まつろわぬ疚しさ

395 潜伏する予期、まつろわぬ疚しさ  天ノ原振リ放ケ見レバ春日ナル三笠ノ山に出デシ月カモ(阿倍仲麻呂)  月ヤアラヌ春ヤムカシノ春ナラヌ我身ヒトツハモトノ身ニシテ(在原業平)  仲麻呂も業平も面している裂目は解離の頓挫であるが、その分節は、仲麻呂は何か不易で一貫したものに詠嘆の重心を移し、業平は言葉の痙攣(反語)を以て模写しようとしている。今しも大海原に懸かる月とむかし三笠の山に懸かった月とを貫く「私」の如きものは同一のものとは思えないのに同一のものとして迫るように、月や春は命のように我身を貫くかに思えて我身は月や春を貫かない。  最終状態と感じられている(月の占める)場所と大海原や三笠の山との解離、命と感じられている場所を占める我身と(位置としての)月や春を占める身分との解離が頓挫している。中間性が瓦解しているのである。仲麻呂を脅かすのは場所が宙に浮くことであり、業平を襲うのは意味が宙に浮くことである。  これは、物へゆく衝動としての命が潜伏しない氾濫で、年長ケテマタ越ユベシトハ思ヒキヤ命ナリケリ小夜ノ中山(西行法師)の、その思いがけなさが反語であるように、時間も位置も頓挫している。境目や裂目としての峠や崖から振り放け見る家郷や足跡が何か別の大気に包まれてしまう、その、模写発作としての目眩や落下が、反語としての思いがけなさに胴震いする。命と感じられている最終状態は、予期の潜伏であり、潜伏する予期とは疚しさである。反語としての既視感は、予期に矛盾しない範囲でずれる即興性の報告の一つであるが、それとは逆向きの、マタ再ビノハズナノニ初メテナノカ、に反転しかねない。命ナリケリは、即興的に物へゆく責めが疚しさとなって潜伏する、その最終状態としての場所や意味があふれ出して、疚しさがまつろわないのである。

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