Sunday, February 23, 2014

碧騒401 寛容、不寛容の症状

401 寛容、不寛容の症状  神、物、場所、意味、しるしは潜勢力の形態を呼び出そうとし、神と物の間、物と場所の間、場所と意味の間、意味としるしの間、しるしと物の間は、関係ではなく化、実体と関係の区別がつかない裂目(複合・零度)で、能と所、時と場所、質と量、位置と状態も解離しない。  しかし、裂目(媒体性)が解離して物が場所を占めるや、中間性が猛威を振るい、辛うじてその展開の中断である絶対空間が日常性を支えるが、それは、位置の関係に過ぎない。不易であることを要請する光速度の自乗の広がりも、実はこうした中断のparaphraseであるが、時間と空間が解離しないで広がることに耐えても、位置と最終状態は解離している。  奇妙なのは、Zenon の予言を誰も具体の相で観測し、証明しようとはしないが、相対性から抜け出せないEinsteinの予言は何か観測、測定し、証明しないではいられなくなっていることである。しかし、始めに亀の居た地点に到達したアキレスはアキレスではない、という証言は得られるし、逆に、次から次と涌き出して来る中間点を同時に占める(従って別のはずの)人々がみんなアキレスになる、という証言も得られる。Zenon の論理異常は、同一であることを捉える認識というものの不随意の中間突破の頓挫が、極端に寛容であったり極端に不寛容であったりする症状として、臨床的に採取できるのである。  カラマーゾフの兄弟は、誰もがアリョーシャになり(寛容)、戸口から出るこのアリョーシャは戸口から入るあのアリョーシャとは別人である(不寛容)。

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