Thursday, March 13, 2014

碧空407 最終状態の出現

407 最終状態の出現  子供たちのそれぞれを現実にするのは、物が占める場所が物を正に現実にする物の影であるようにアリョーシャにとって影であるカラマーゾフがそうであるような種である。ところが、イリューシャの影はスネギリョフではない。この、肺をおかされて「イリューシャの石」の下に埋葬されることを願う子供は、石を現実にする影がイリューシャであるように、スネギリョフの影なのである。この反転は、スネギリョフの意味を現実にする影としてのしるしにイリューシャが活き、更には、しるしとしてのイリューシャを現実にする影が解離したのである。しるしを現実にするために解離するのは物である。物が場所を占めるように、しるしは物を占める。イリューシャは、この、物、場所、意味、しるしの間に、同時に、現実と影の間に振動する。  この、現実と影の間は関係ではなく化であるが、化の気配を消すことが解離であり、物、場所だけでなく、意味、しるしも実体の如くあふれ出して迫るのは、解離しないからである。イリューシャのベッドのそばにきちんと揃えてある、赤茶けて、つぎはぎだらけの靴が目をみひらき、影がおどむのも、「イリューシャの石」のそばを通りかかって胸が決壊する発作も、消え易いはずの名前が磐の如く迫り、アリョーシャが子供たちに「カラマーゾフ」と称えられて火の鳥の如くであるのも、解離しないからである。  十字架などの証拠物件の威力にも、このことは当て嵌る。それがしるしであることを現実にする影は物であるが、しるしと物が解離しない限りで、それは、最終状態の出現、十字架が何も写さなくなるのである。

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