碧空409 救済、擬似救済
409 救済、擬似救済
十字架は、地下鉄から吹き上がる空気にふくらむスカートを絶妙のしぐさで抑えるマリリン・モンローのように、場所を占める物としても物を占めるしるしとしても、証拠物件であるが、その突然の肉薄、威力は事件の取り消しで、生贄であることは出来事ではない。
スヒマ僧ゾシマ長老は、十字架に釘づけにされるように、「腐臭」に釘づけされ、ミーチャ(カラマーゾフの長兄)は「三千ルーブル」に釘づけされる。つまり、「堕落と恥辱」の、その生贄であることを漠として期待する渦に架けられるのである。この三千という数量は本質との区別がつかなく、ミーチャの瞳にミーチャを駆り立てているものの全容が顕れ出ているのをゾシマ長老が占ったように、グルーシェニカ的なものもカテリーナ的なものも「三千ルーブル」が単純、激烈に抽象し、しかも麻痺して失われた半身の感覚を残されたもう一つの半身が兼ねて半身から全身が顕れ出るように、分割された片方の千五百ルーブルからは「三千ルーブル」が発芽して、その突然の肉薄は減衰しない。ミーチャがお守り袋に入れておいた秘密は、半分にしてとっておいた千五百ルーブルというより、このヒドラ状の変容と肉薄である。ミーチャは選択できないでいる。グルーシェニカあるいはカテリーナを現実にするのは打ち消されたもう片方(影)であり、同じようにして、父殺しあるいは子殺しを現実にするのも打ち消されたもう片方(影)であり、この現実と影が解離しないからである。
一体、救済と呼ばれるものは、約束の気配がしているのに何か命中していない、何か失われることと区別のつかない到達・保存(metamorphosis )であるが、命令が現実になるために打ち消されて影となって潜伏するように解離した現在の惰性や認識に身を窶して顕れる擬似救済を脅かす。擬似救済は、苦痛の源泉が分からないために(実は分からないように)明白にそれと分かる傷を導入して置き換え続けずにはいられない依存症のようなもので、救済されないために(実は救済されないように)、この世の姿をして顕れる擬態に依存しないではいられない。
十字架に子殺しが顕れたのは、殺されたものに成り澄まして遡って生活し始めると同時に子殺しの命令が影として潜伏するのである。この潜伏は、種子というものが父殺しの命令を孕んでいることの度忘れ状態である。ミーチャのはしゃぎ、躁、性急で騒がしく、何かもの哀しくも不謹慎である症状は、この命令が具体として解凍して服従の運動になろうと足掻くが脂汗をかくような命令の運動になるばかりでいつまでも化けない、つまり(化けないように)金縛り状態で空転しないではいられない依存症である。


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