Saturday, March 22, 2014

碧空410 何か善のようなものの影

410 何か善のようなものの影  ミーチャにとって誤審はフョードル・カラマーゾフを父とすることと同じく熱病(受難)であるが、それでもなおこの何か善のようなものを現実にする影が、遅らされた最後の審判である。依存症(擬似救済)としてのこの世は、何か善のようなものの一般化と複写を推し進める。こうした何か善のようなものが悪の気配と解離するのではなく、影としての最後の審判があふれ出してしまうことは依存症の解消であるが、そのようにしてグルーシェニカ一般と複写から、この世ならぬものの忽然とした出現としての(誤って「曲線美」と呼ばれている)グルーシェニカへ振動することは実は、廓然大悟の如き激変である。この肉薄は、説得力とは没交渉に否応なく、うむをいわせない。  「窓に幾鉢かのぜにあおいを載せ、紗のカーテンがかけてあったが、おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されていた」。ラスコーリニコフ(「罪と罰」)は想う、ソノ時モキットコンナ風ニ、日ガサシコムニ違イナイ・・・ソノ時とは、老女強殺が実行に移される時のことであるが、ラスコーリニコフにつきまとう「偶然の一致(co-incidence)」のように関心が筒抜けで、殺意を夕日と共にする、その斜光そのものが殺意であるかのように、殺意の位置が確保できないが、うむをいわせず肉薄する。ラスコーリニコフの強迫的な想念や瀬踏みの反復は、実は中間突破の頓挫で、ソコまでの距離がきっかり730 歩であるのは、舞い散る桜の花びらがくっきり一つ一つ数えられる症状に似て、きっかり730 回数え直すに過ぎない。時と場所の区別がおかされて、何か善のような距離が現実にならない、この世の影(最後の審判)がこんなところにあふれ出しているのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home