Friday, July 11, 2014

碧空447 仰天

447 仰天  科学やその技術的応用が未開と呼ばれる人々を震駭させたのは、一つには日食の予測のように法則的なもの、写真術のように提喩的なもの、つまりは一般性と本質の保存のための平均化や抽象、圧縮といった器官の延長の技術で、それは、呪術から解放されているのではない。  運動する物体がテレビの画面から外れて消えてしまうのに仰天するとすれば、それは、島隠れして航行する船がやがて島の端から出て来る通過(同一のものとして平均化された物体が位置づけられて保存される連続状態)のようにテレビの端から出て来るのではなく、座標面が別の座標面に接続して潜り込んでしまう、その飛躍のためである。しかし、夜の闇を潜り抜けた家具や置物の福助が息づいている日常の失調の場合のように、島の端から出て来る船やこんなところからも見える富嶽や月も偽物じみるどころか現実ではないかのように唖然とさせはしないか。  ガラスの容器の表面から白銅貨が透過して容器の底に落ちて音を立てるかに見せかけるマジックを寛容に見物する観客の仰天の場合、それが寛容というのは、透過するはずないのに透過したかに見える物体が同一のものとして共謀的に保存されているからである。不寛容であればそれは同種のものに留まる。同一のものの鎧う寿命が極端に短ければ同一のものは解けてしまい、通過も透過も現実ではなくなるが、同種のものは同一のものとして扱わなければ現実にもならない。進化論は、それが感激である限りでは同種のものを同一のものとして扱う呪術の失調で、しかしその感激こそが呪術の失調を埋め合わせるのであり、同じようにして素粒子の振動に仰天することこそは、素粒子の振動を現実にもならないことから救い出す。  個にして種である火の鳥は寿命を鎧おうとするが鎧えない。火の鳥は法則的にも歴史的にも保存されない。同じようにしてJesus Christも、通り過ぎようとして消えてしまうか、通過するはずないのに通過したかに見えるか、どちらにしても仰天させる。

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