Friday, August 01, 2014

碧空454 不随意の解脱

454 不随意の解脱  呪術と比喩の間で二重に蜻蛉を切る反語性の含蓄の、その最高の解離(到達・保存)は、日常/無我である。無我は日常を位置づけて現実にする影で、日常性に於いては、心底から「私」を感じているくせに、それらしく中間突破を装っている。つまり、無我が蜻蛉を切っている。疚しさとなって潜伏する無我と場所と日常が鎧う直しさは別のことではない。  もしかしてこの含蓄は、時間と呼ばれていないか。無常は時間がおどみ、位置づけられなくなり、平均性が解けて無我が重波のようにあふれ出すのである。  寿命を鎧うものの目に見える崩壊ではなく、寿命が解ける無常の突然の混沌は、場所を占める崩壊ではなく何処デモナクなって宙に浮く解脱であるが、梶井基次郎の崖上の突然の窃視も、いきなり覗き穴を盗まれていて、崖下の窓の中の名も知れぬ、人知れぬ死滅をせめて出来事として救い出しているのではなく、その出来事さえ場所を占めない底知れぬ落下をトランス状態で共にする不随意の解脱なのである。

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