碧空458 究極の下降
458 究極の下降
資本主義経済では、予言や奇蹟のように誰もが欲しがる究極の商品が、善であるが、それは種の関心である。資本主義経済の不断の分業は、究極の商品に向かって一斉に器官を延長している。何にでも化ける媒体としての貨幣、万能細胞のようなものは究極の商品に迫るかに見える。それは、免罪符のように初期化するからである。自由、差をつけるethos に振れることの反動である。
「見えざる手」に導かれていく先は、平等である。平等は一般化されることであったり、分業の網の目に位置づけられた個々の現実が拡張してそれぞれ全体を代表する殺到、コンサートやファシズムの熱狂に於ける無差別、のような自由の剥奪であったり、あるいは、人の手から人の手へ渡るごとに貨幣が模写を解くような初期化であったりする。
同一のものであることを深めた限界である究極の自由では一般性が保持されない究極の孤独が現れ、同種のものであることを深めた限界である究極の平等では誰とでも入れ替わる袖触れ合う隣人が出現するが、袖触れ合う隣人は一般性が保持されない。それは究極の孤独と区別がつかない。
Internationale(「悪霊」)の陰謀と被監視状態の気配を、地域のethos が馴れ親しんだ制度の枠内で消化しようとして、それがスキャンダルの期待の高まりに言い替えられてしまったのは、まるっきり的外れというのでもない。というのも、スキャンダルは衣裳や仮面を剥ぎ取って地位や身分や等級を初期化するからである。地域のethos は、差異に振れることの反動である。
釘付けの磔刑の十字(贖罪)と復活というスキャンダルを通して一体誰と入れ替わったのか分からなくなる、袖触れ合う隣人の出現は究極の初期化であり、免罪符の初期化を阻止するが、一方、もう一つの免罪符としての進化論は誰もが欲しがる究極の商品にはなれないにしても、原初のDNA を扱う呪術に振れることの反動である比喩が図らずも究極の平等を言い替えてしまっている。反動に打ち消されたものは究極の孤独であるが、この究極の下降のparamorph として、袖触れ合う隣人の気配も進化の気配もInternationaleの陰謀と被監視状態の気配も方解する。


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