碧空467 収縮体、亜収縮体の標本
467 収縮体、亜収縮体の標本
飛騨を蔽う山蛭の、感染して高野聖の姿と大きさに変形して現れる見えない疫病は、魂のように中間突破(移動)するが、しかも魂のように極端に私的であるために同一のものの移動であるのかどうか疑わしい。
この、見えないものの出現は、拡大なのか収縮なのかも区別がつかないが、反語性が言葉を代表する奇妙な信用状態(収縮体)を位置づける影が時間である場合はタイム・スリップである。ドルゴルーキーは収縮体であるが、九日間の擬死発作を潜ってもう一人のドルゴルーキーが出現する衝撃は、タイム・スリップの話が分岐する萌芽である。
鏡に映らないということは影を落とさないことでもあるが、現実と影が解離しないDraculaの祖述はまたタイム・スリップの祖述でもある。
虚無が世界を代表し、反語性が言葉を代表する奇妙な信用状態を位置づける時間では、「わたしだけが足りないだけ」である。この時間は現実を囲んでいるが、現実を守護するのか脅かすのか区別しにくい。「一歩足を踏み込んだら、たちまちまた木端のように渦中の中に巻き込まれてしまうだろう。わたしは今まだ、自由なのか、それとももう自由を失ってしまったのか?」(「未成年」ドストエフスキー)
これも、「私」というものの出現が見えないものの拡大なのか収縮なのか区別がつかない収縮体というものの標本の一つである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home