Thursday, September 18, 2014

碧空470 究極の復讐発作

470 究極の復讐発作  一体誰と入れ替わったのか分からない復活は、「わたしだけが足りないだけ」ということでもある。そこでは「私」というものが守護されているかに見えて脅かされていて、ほんものにもにせものにも成れずにタイム・スリップしてしまう。  ヴェルシーロフの分身は、矛盾した衝動や命令の緩和や解離のための分割であるかどうかは疑わしい。誰でもないように初期化して何にでも化ける模写能の奇妙な信用状態が、窃視としての狂気であるが、これは通貨に酷似していて、この模写能は贖罪能と区別がつかない。しかし、通貨のようには流通しないのが、復活である。  キングコングは天使というものが資本主義社会で流通しないために変形して出現する。個と種が呪術と比喩の間に解離しなければ、本物も贋物もなく、通貨は流通しない。復活は、模写・贖罪の頓挫である。それが奇怪であるとすれば、復活というものを誰もが度忘れの状態にあるからではなく、復活というもの、そのものの輪郭喪失のためである。  一体、鶴女房は、個へ迂闊にも呼び出されてしまった秘密を輝かせるためであるかのように変形の苦痛を忍ぶ。アノ時ノ鶴デアルというきらきら青く光る秘密の告白を我々が掌に見るように盗み聞きしないではいられないのは、個と種が呪術と比喩の間に解離しないで葬られてしまうテロを誰もが度忘れの状態にあるからであるが、トランス状態で輪郭喪失を共にするのである。この、秘密の告白の、優越であると同時に劣位に沈む二重性は、復讐じみてもいるが贖罪の解毒作用じみてもいる。  このように、「未成年」(ドストエフスキー)の復活は、究極の復讐発作、解毒作用である。

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