Sunday, September 21, 2014

碧空471 出来事の変形

471 出来事の変形  復活が法則と歴史を超絶して流通しないように、Nietzsche の永遠回帰も日常性を解脱して、その衝撃は恐慌とグロテスクである。復活も永遠回帰も言葉として現実になるのは、命令が疚しさとなって場所のように潜伏した「物」を影とするからである。この、括弧憑きの物の気配と解離しない限りで復活も永遠回帰も「物」のように襲う。その衝撃は言葉なのか、「物」なのか区別がつかない。  永遠回帰することは、法則性と歴史性が崩壊する輪郭喪失の衝撃であり、何にも成れずにタイム・スリップしてしまうのである。この恐慌とグロテスクは、マリー・アントワネットの首が切断されることやアウシュビッツや深川通り魔事件が際限もなく繰り返されることになるグロテスクとは違う。それは程度としてのグロテスクであり、そもそも、そんなふうに反復するのではなく、つねに初めて起こるのであって、2回目、3回目というように起こるのではない。出来事が場所を占める統計的平均化ではなく、場所を占めないのであり、起こっていることに面して起こっていることが疑わしい、そうした、出来事というものの輪郭喪失なのである。  一体、タイム・スリップは出来事だろうか。そうではなく、出来事というものの輪郭喪失、場所を占めるはずなのに占めない、といった出来事の変形がタイム・スリップと呼ばれるのである。復活も永遠回帰も薄気味悪く迫る。出来事を守護するように脅かす「場所」のように襲うのである。その衝撃は出来事なのか「場所」の気配なのか区別がつかない。

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