碧空474 奇怪な飛躍の気配、発作的に思う
474 奇怪な飛躍の気配、発作的に思う
Einmal ist keinmal.(一度は数のうちに入らない)
ドイツの諺だとしてM.Kundera が「存在の耐えられない軽さ」で引用している。一回しか起こらないことが起こったことにならないとすれば、何回起こっても起こったことにはならないが、しかし、一回起こることに限りなく迫るならば実はそれは一回起こっていると分かる。この奇怪な飛躍は、化が認識に飛躍するのである。
一回起こる「ために」は無限に起こらなければならない。0.999・・・=1 の=は、この「ために」であり、目的と原因が収斂していて、永遠回帰は運命(the ressurection and life )を吹き替えている。運命というものは、一回も現実にならないように一回起こる。潜伏する最終状態は予期であり、その命令が実体の如く迫る化の、その即興性が認識に飛躍する、その飛躍は漠として心臓を締めつける思いがけなさであるが、トマーシュの場合、漠として「窓のところに立ち、中庭ごしに向う側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいる」。三週間ほど前にプラハから二百キロ離れた辺鄙な小さな町で一時間も一緒にいたかどうか、ウエートレスのテレザは間に合わせ過ぎる飛躍なのである。しかし、ズット前カラ知ッテイタヨウナ(それとも、ズット前カラコウナル気ガシテイタ)瞬間は、瞬く間ということではなく、決して日常性には属さないでタイム・スリップしてしまう、狙い澄まされた飛躍なのである。
トマーシュを襲う奇怪な飛躍は、テロじみていて、漠として「窓のところに立ち、中庭ごしに向う側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいる」のは、一目惚れのような模写発作ではなく、一体テレザは誰なのか浜昼顔にきいてみるような転移発作である。
テレザを憂い見つめているとテレザに似ようとしているのが分かる。そんな飛躍の気配に、発作的に紐でテレザをぐるぐる巻きにしたくなる。もっともトマーシュは、紐でぐるぐる巻きにするのではなく、誰かがピッチを塗った籠に入れて川に流し、トマーシュが岸辺で捕らえるようにした子供だと発作的に思うのである。


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