碧空481 基盤の底り(あふれ出す安堵)
481 基盤の底り(あふれ出す安堵)
フランツはゴシック様式の大伽藍に分厚く積もった光のような微塵のような空虚に面して、サビナは山の中に隠れている名も知れぬ小さな村の教会のミサに面して、サビナやフランツが見いだしたのは、サビナやフランツを現実にする影としての不随意の命令(重力)である。(「存在の耐えられない軽さ」M.Kundera)
戦車侵攻後の監視体制に適応しようと右へ倣えする人々の行列からは遥かに逸脱した僻村のミサは、行列を離れずにはいられないサビナの繰り返される裏切りの衝動に漠として共鳴して光り出し、フランツが大聖堂に見いだしたのは、フランツを拘束する諸々の要請が跡形もなく除去されて光のように微塵のように空っぽになっている解放である。家族も祖国も裏切らずにはいないサビナの亡命の衝動はしかしサビナを宙に浮いたものにはしない安堵(重力)であり、夫に見捨てられ左右違った靴を穿くほどにも放心していた母を庇護するように迫る命令がフランツを現実にする影であるとするのはフランツがそう思い過ごしているだけで実はその命令を裏切る、その解放への衝動こそはフランツを現実にする影(安堵)なのである。
この安堵が不随意の重力であることは、サビナの亡命の衝動がその衝動そのものには及ばないことや、フランツがフランツを現実にしている衝動を内臓のようにそれと知らず使いこなしていることからも分かる。つまり、サビナにもフランツにも不随意の偽りがあるが、しかしその擬態性が奇怪なことに「真実に生きる」意味深さなのである。
それは、「審判」(F.Kafka )のKの場合のように覗き穴が盗まれた隠れなさではない。不随意に隠れるのである。意味は心臓のように秘密に鼓動を打ち、鼓動を打ち続けることでカノンのようにまるで意味深くなるかのような基盤である。
安堵があふれ出すのは、この基盤が底り状態になるのであり、曝された安堵はもはや安堵ではない。安堵の胸をなでおろすというのは、意味を心臓のように秘密に機能する基盤に戻そうとするまじないのようなものである。
サビナが山中に隠遁する教会のまぼろしじみたミサに、フランツがゴシック様式の大空虚に、「神ではなく美」を見たと報告するものは、実はこの、あふれ出した安堵、無防備に曝されてしまっている亡命(サビナ)と解放(フランツ)の最終状態が、心臓のように隠沼のように露出しているのである。


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