碧空489 カメラ・オブスクーラ(「半身」の気配)
489 カメラ・オブスクーラ(「半身」の気配)
「クレッチマーがコートを脱がすのを手伝って、マグダの肩甲骨の輪郭が動くさまや、背骨をおおう浅黒い肌に寄っては消えるしわを見つめていると、その肌はヴァイオレットの香りがした。」(「カメラ・オブスクーラ」B.Hабоков )ここでクレッチマーが、「どうにもかなわぬまま、かたわらを通り過ぎ、耐えがたい喪失感を一両日のあいだ残して」何回も消えていった「半身」から、記念碑として「ヴァイオレット」を跡形もなく抽象したのは、自らの斬首された生首をカメラ・オブスクーラにしてである。
「ヴァイオレット」は、「半身」から何か個のようなものを抽出したのではなく、「半身」が「私」というものの何か一貫して不易なものを脅かすものである、その媒体性を抽象しているのであるが、「ヴァイオレット」が媒体になるために閃光を出して姿を晦ました「半身」の気配が、カメラ・オブスクーラに転位している。「私」というものの何か一貫して不易なものを脅かす老身や、心が内在するのか外在するのか、内在するとしても頭部に潜むのか胴体に潜むのか疑わしくする生首に転位するのである。
このようにして、G.Moreauの、空中に出現したヨハネの生首(「Apparition」)を通して「半身」サロメを抽象する刺青紋がサロメの裸身に浮かぶことになる。ヨハネの生首は、刺青紋を現実にするために閃光を出して姿を晦ました(影としての)「半身」の気配の転位である。


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