碧空490 スリルの源泉
490 スリルの源泉
クレッチマーが生首に、すなわちカメラ・オブスクーラになって写しとったものは、白いカーブ、忽如として(すなわち程度が取り消された絶対の速度で)出現して迫る自転車、膨れ上がる電信柱であるが、それは、予期を場所にして隠喩的に占める物ではなく、物を場所にして提喩的に模写するしるしであるが、それは予期と記憶が解離していない。
この抽象の閃光を出来事として位置づけるためにカメラ・オブスクーラは、崖の上でハーブを採取している老婆の目に、更にはツーロンに向かう郵便飛行船に転位して鳥瞰する。ちょうどその頃、ヨーロッパは隅々まで晴れ渡って、ベルリンにはアンネリーザがいるはずだ。しかし実は逆に、この隅々まで覗き込んで忽如として隠れなくする鳥瞰に、大気は何も変わっていないのに取り替えられてしまい、世界が脱落する。
クレッチマーは事故の後、記憶を回復するのと引き換えに視覚を喪失する。世界が脱落する代わりに失明した身体をカメラ・オブスクーラとして、映画館の暗闇の中で忽如としてマグダが導かれた隠れなさを、失明していることでマグダに監禁された状態になることの隠れなさが模写する。
「裏窓」(A.Hitchcock )は、太陽がヨーロッパの隅々を顕微鏡的に忽如として照らし出すように、アパートの部屋と部屋を山岳が隔てしかも隣り合う人々を隠れなくする覗き穴である。この裏窓が日常性の底のカメラ・オブスクーラになって、身動きできないままに迫る脅威に曝された身体の隠れなさが、霧の底の船の汽笛に呼び出されて隠れない気配を屈折して写し出していて、この出来事としての隠れなさは、予期とも記憶とも区別がつかない。そのことが、スリルの源泉である。


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