碧空509 目撃するJonathan、前触れるJonathan
509 目撃するJonathan、前触れるJonathan
night-existence はlight-existence に対立するかの如くであるが、Dracula もJesus Christも掛離れているというのではない。というのも、どちらもペストや罪のように侵入し、感染し、猛威を振るうからである。
媒質変化に包まれた消尽点ではnight とlight が収斂し、そこでは目撃証言は失効するが明晰に隣人の媒質変化が分かるのは、Jonathanもヨハネも変わらない。ペストや罪のような侵入と感染と猛威が分かるのは、認識ではなく前触れである。ヨハネ伝はJesus Christを包む媒質変化の転写、目じるしを、予告された殺人の記録の外観のうちに目撃と随聞の形式で辿るが、ヨハネはJesus Christの舌を通して(同時に)Jesus Christはヨハネの舌を通して、Jesus Christ(媒質変化)に時間がかかるのではなく、ゴーストがかかるのである。
ヨハネの文法もJonathanの文法も、物と場所や能と所の解離した(時間がかかる)出来事、物を扱うのに、それが解離しない(ゴーストがかかる)媒質変化を扱おうとするために、その解脱の気配は悪の気配に、消尽点の異郷感やsuspenseは逸脱やhorrorに変形されてしまう。
510 ふらふら導かれて
ゴーストがかかるJesus Christの顕現は、関係と実体が解離しない媒質変化、時間が解けるのであり、時間が実体になろうとして終わっている、というように襲う。それは、鳩が降りて来て肩に止まるとか、水が葡萄酒に変質する、ヨハネより後れて来るがヨハネに先立つ、「復活」といったように転写されるが、関係と実体が解離した時制や文法や法則を躓かせる。しかしその躓きは眩惑的であり、そうした転写、しるしにふらふら導かれて、魔術や催眠術や夢遊病にかかったというふうだ。


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