Thursday, January 22, 2015

碧空512 場所の野心

512 場所の野心  Jesus Christの目撃は、こちらからは見えないがむこうからは見える存在に被曝して隠れなくなるだけでなく、目撃したことにならない。というのも、この隠れなさは被捕食であり、それが塵灰や一滴の露に転写されるのである。Dracula が鏡を前にして(部屋との区別をおかされて)姿を晦ましてしまうように、Jesus Christは寿命を解いて失踪してしまう。この失踪がthe resurrection (and the life )であるが、この、位置づけられない失踪の目じるしが死体の所在の知れない「復活」なのである。死体の寿命は解けて、死体と死体の場所(としての死)と解離しないで、場所は死体を輪郭づけるどころか輪郭を解いてしまう。  Rousseauの二重性は打ち消された思考を潜伏したままにしておかない。精神分析(他の誰かを通した思考)と嘘とが解離しないのである。「告白」は告白しているのに嘘が口から飛び出してしまう叫びであるが、それこそは、虚構の気配を消そうとする虚構の野心である。真の寿命は解けて、真と真の場所(としての偽)と解離しないで、真の輪郭は解けてしまう。  「告白」は、陰謀と追跡の気配の、その媒質変化が虚構の野心として転写されていて、こちらからは見えないがむこうからは見える存在の目じるしである虚構の野心から脱け出せない。告白したことにならないのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home