碧空522 何か自由ではない道の覚醒
522 何か自由ではない道の覚醒
Jesus Christの水上歩行(奇蹟)には、二つの側面がある。一つは、奇蹟として啓示された技術革新の前触れであり、一つは、夢遊病のように何か自由ではない覚醒を発作的に模写している。
運命の気配を消せないということは、底なし沼の上をただ一条渡渉できるような(しかも、渉ってみなければ本当に渡れるかどうか分からない)道筋があるようなもので、夢中遊行はそうした危険な道筋を辿ってみせる。何か自由ではない道が覚醒するのである。Minaの器官の延長であるLucyに輸血して抑え込もうとするのは、こうした道筋である。
平行世界の間には、Leibniz の予定調和的世界が種のように出現している。平行世界に出ることは即興であり、ピンポイントの移動にはならない。正にそのために平行世界に出るのであるが、運命の気配を消す限りで日常(の中庸、時間のかかった程度としての自由)へ出てしまう。
タイム・スリップは何か自由ではないと感じられる。それは、一気に拡大する極端な器官の延長であり、極端に私的な覗き穴を鎧うことであり、しかもこの覗き穴が盗まれてしまうからである。一目惚れがタイム・スリップしたような衝撃であるのも、同じように何か自由ではない(自由が解けている)と感じられているのである。


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