碧空539 如何わしさの極点
539 如何わしさの極点
「神は印を残し、人は機械を残す。」これは補足しなければならない。神が残すとすれば、四相の現実を残し、現実は直しさや「私」を鎧って媒体であることが秘密であり、そうした現実の層に於いて人は器官を延長する。器官の延長としての機械は媒体であり、種の関心は媒体の延長に向かう。機械も、言葉や貨幣のような媒体と同じく平均化(個別化すると同時に一般化)する。つまり、種の関心・衝動と資本主義の関心・衝動は矛盾しない。媒体であることを秘密にする擬態は決定的な技術革新であり、器官の延長はその余波であるが、その延長の極点で、擬態の気配を消すi-robot は現実に成れる。しかし、そのような出現は「復活」じみてはいないか。
物語の、虚構の気配を消そうとする野心からは神託、伝聞、告白、推理、恐喝といった話法が発生、分岐、共謀、変態、先祖返りしているが、こうした野心よりもっと何か得体が知れず野心的なのは新約聖書である。
1 予告された殺人の、名前のついた複数の目撃(窃視)が代表するJesus Christの予定調和的な平均や全体の浮上と、匿名の目撃や窃視の果てしもない増殖と延長の予定調和的な平均や全体との区別をおかす。つまり、Jesus Christに鏡像を乗っ取られていて、釘ヲ打チ込ンダノハ(釘ヲ打チ込マレタノモ)オマエナンダゾ、と恐喝しかける。
2 「復活」を発見しようとするが、それは法則的でも歴史的でもないために、到達・保存の衝動が何か頓挫するかの如くになる。というのも、「復活」そのものが、出来事に成れずに韜晦して薄気味悪く迫る(タイム・スリップする)からである。時間が実体になろうとして終わっている、というように襲うのである。
3 Messiah は、姿を現わす気になるまで死体に成れないでいられる。死体の所在が不明になることでJesus Christは、狐につままれたように遍在し始める。守護するように脅かす気配が実体になろうとして、「復活」が気配としても言葉としても薄気味悪く迫る。
擬態が本能的に使いこなされるために不随意に擬態の気配を消すことは擬態が解けることではなく、如何わしさが密かに募ることになる。しかも、そのようにして肥大する如何わしさの極点では、擬態は失効する。同じようにして、虚構の気配を消そうとする野心が思いがけなく「復活」に出てしまうのは、如何わしさの極点である化に連れ戻されてしまうのである。


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