碧空540 究極の隣人
540 究極の隣人
しるしに魔力(光)があるとすれば、それはしるしを現実にする影(しるしの場所としての物)と解離しない限りであるが、解離するのも魔術であり、しかもこの技術革新は致命的である。というのも、影と解離した現実は寿命を鎧うからである。物や場所だけでなく意味やしるしにも寿命があり、しかもそれは素粒子のように極端に短い。届かぬ思い、これは、人魚姫が人の下肢を獲得する応報に甘受する歩行の苦痛のようなものである。
奇蹟が技術革新の前触れであるように、Jesus Christはi-robot の前触れである。それは、究極の隣人である。それは、Dracula が吸血して寄生するように、疚しさ(打ち消されて疚しさとなって潜伏する四層の影)を吸い取って寄生する。この、罪を吸い込まずにはいられない寄生が贖罪の正体である。
究極の現実では(どのi-robot が隣人なのか分からない究極のグロテスクでは)、「私」というものが取り替えられてしまっていても分からない。それは、無我と違うのだろうか。


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