Tuesday, April 28, 2015

碧空544 擬態疲労、詠嘆

544 擬態疲労、詠嘆  滞留する現在が最終状態にならないために打ち消されて疚しく潜伏した最終状態(時間)が現実になろうとして(同じようにして)もう一つの最終状態が潜伏する再発、あるいは後退が擬態疲労である。それは退屈であり、その発見はまるで別の話である。  阿倍仲麻呂の、長安の月を現実にする時間と大海原の月を現実にするもう一つの時間と三笠の山の月を現実にするさらにまた別の時間が(月の最終状態として)同じ月とは思えない複数の月と解離しない限りで、あの奇妙な無重力、媒質変化は襲う。しかし仲麻呂は、疾走と区別のつかない懐疑を詠嘆にすり替えないではいられない。退屈なほどに同じ月が占める時間を予定調和的にせいぜい引き延ばして、同じ月であることに一旦は驚いたかに見せかけるのである。  詠嘆は何か良心的である。再発、後退を何処で止めるか決断する。それは、擬態疲労を食い止め、もう一つの時間(最終状態)が涌き出さないように怺える。信長の「夢まぼろしの如し」はどんなに決然としていても詠嘆のようなもので、とうてい同じ信長とは思えない無重力と疾走に面して、同じ信長であるように「夢まぼろし」を鎧って見せるのである。

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