碧空578 収縮体、肥満体
578 収縮体、肥満体
収縮体は、或る呼応の相補性に隷属しつつ、或る何か過ぎ去っていない現在を死蔵する。この過ぎ去らなかった現在は、時として、その形式が同時にその意味であるような形象(意味は不明だがドンピシャに響いてくる含蓄)となって姿を現すが、それは、タイム・スリップしたような局地的衝撃である。
この、制圧されぬままに死蔵されるものは、あたかも輝きを増大させるためである如く収縮(あるいは拡大)する。それは、死体、宝物、陰毛と処女性といった秘密であり、たとえばキング・コングとは、陰毛と処女性を守るために自ら巨大化した、陰毛と処女性でもあり、その呪縛的獰猛は、秘密を分け合うためにこっそり毒を盛る行為に似ている。
小ハムレットは、大ハムレットが午睡している間に叔父が耳から毒を盛る場面の、その空気(空間)という環境に、その環境そのものに膨脹して姿を晦ましたり、空気そのものに収縮あるいは拡散することによって姿が見えなくなる。透明な小ハムレットは場面を見るのではなく、場面を包む媒質となる。こうした媒質性は、おしなべて、そこにいてそこにいない存在(姿の見えない存在)のその幽霊性である。
焦点が二つある楕円を頭上に浮かべた収縮体は、恒温性(発信と受信の分業)へ不断に誘惑されているが、また不断にそこから引き返してしまう、といった振る舞いをする。保持の形態へ絶えずよろめき、と同時に、絶えず保持の形態を拒むのである。
肥満体とは、見失われた輪郭を(Dracula が蝙蝠や蜥蜴や狼や霧になって探し索めるように)贅肉となって捜し索める彷徨である。贅肉の極限では、分裂して双子となる。贅肉と双子の中間にシャムの双子が棲息する。贅肉とは、自分の一部ではないかの如き瘤であり、自分の一部であるものに面して自分の一部であることに関して異しい疾を誘う奇形嚢腫であり、シャムの双子の片割れを孕む水頭症なのである。
幽霊性の表出としての双子は、互いにその劣位部分の影(余計なもの)に似ようとし、不断に個になろうとしていつまでも個に満たない奇妙な過剰、二重性である。
余計なものとしての双子の霊とは、個別性を廃棄し、序列や分類を無効にする魑魅、あるいはジョーカーである。
瘤の中のシャムの双子の片割れ、奇形嚢腫の中の余計なものは、しばしば、荒野を彷徨い、しかも夢遊病のように境目の線上から足を踏み外すことのできない困難な、衒奇ともいえる歩行をする。捨子のオイディプスの腫れた脚や疫病の元凶として失明した後の彷徨には、こうした、余計なものという範疇が谺している。牝のスフィンクスという混合種(怪物)は、膨脹して自らを孕もうとする余計なものを、脅かす形にしたものである。寄生するや隣人の姿と化して序列や分類を乗り越える疫病が潜む荒野の圧縮であり、獰猛化である。それは、オイディプスの背負った瘤を眼前に見える形にしたものである。したがって、牝のスフィンクスを退治することは、単に背の瘤(余計なもの)に対する麻痺、眼翳(そこひ)にすぎない。牝のスフィンクスが姿を消すのは、再び荒野そのものに膨脹してしまったからである。このことは繰り返される。次に荒野は王妃の姿をとる。それは、自らを(余計なものを)孕もうとする余計なものを、誘惑する形にしたものである。そして王妃に対してオイディプスの失明が起こり、王妃は荒野そのものとなって姿を晦ますのである。
オイディプスが、捨子であることを背負うことは同時に王妃(生みの親)を瘤として寄生させてしまう。一方、王妃はオイディプスを捨子として以来、排除したはずのオイディプスを孕んだ妊娠状態にずっとある。その妊娠を鏡に映すごとくオイディプスはやってくるのである。王妃とオイディプスの関係は、母と子のそれというよりは、相互に余計なものに似ようとする双子の関係である。二人は双子の霊に取り憑かれている。それ故に、序列や立場の逆転が相継ぐのである。
小ハムレットは叔父と秘密を分け合い、叔父は大ハムレットと秘密を分け合う。毒を盛るというような婉曲を以て分け合うのであるが、そこで(有性生殖のただ中で)何か過ぎ去っていない現在とは何だろうか。


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