碧空592 「世界が終わっている!」発作
592 「世界が終わっている!」発作
「New York Babel」(P.Auster)で姿を現した、英語の襲撃から遁走するために逐語的に他の言語に変換しないではいられない、その原語は、どんな変換を鎧って姿を晦ましても母国語を陰画として浮かび上がる。この遁走は、母国語の寄生嚢腫の気配から脱出できないでいる。予言者の声がどこか別の源泉から聞こえて来るように、変換して物語る舌、声帯も腹話術にかかっている。Babel の混乱は一般化や同調の廃棄であるが、個別化や一般化が両極端に走れば発信と受信は解離しなくなって分業を取り消してしまう、それは、沈黙(絶対零度)である。
鶴女房は沈黙に反抗したのであり、あのようにして正体を現すことは何か復讐じみている。しかしそれも空しく、誰もいなくなって沈黙が広がるのは、鶴女房を現実にしていた陰画は鶴であることではなく、「私」を鎧ってしまっていることだからである。思いは届かない。思いがけなくも罠から解き放たれることは、まるで事故のように特別に呼び出されるという別の罠にかかることである。あの、窃視の決定的瞬間に(時間が極端に拡大された静止画像が虚像に変わる瞬間に)事故のように入れ替わってしまうのは覗き穴の能所である。隙間から覗かれるように仕向けて尾羽打ち枯らした正体が顕れても、覗き穴を覗いているのは鶴女房(「私」)なのである。それは呼び出されたがっているのに(「認識される!」という夢想に取り憑かれているのに)どんなに叫んでも口から飛び出すのは鶴の声ばかりでギョッとしている。この沈黙に反抗して、もういちど罠にかかりたがってさえいる。
襲撃の気配を躱すために他の言語に変換しないではいられない奇形嚢腫の中のもう一体も、その変換発作の瞬間に覗き穴の能所が胴震いしてしまう。隠れなさに狼狽して抵抗する「私」を鎧って韜晦、遁走してしまうのに、事故のように解読されたがっている。Babel 的なものとは、世界の終わりを高さの次元で覗こうとしてひたすら積み重ねる徒労であるが、変換(腹話)の摩天楼も隠れなさに抵抗しながらも瞬時にして沈黙に閉ざされる。それは、絶えず積み重ねているのに一段も積み重ならない、「世界が終わっている!」発作である。


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