碧空601 grotesque、放心
601 grotesque、放心
零落(the fall)は零落の気配を消す限りであるが、零落の気配が消えていないfree fall は零落が解けるのである。器官が延長しないのであり、偶然も適合しない。具体になる偶然は意図との区別がおかされてしまう。Stillman教授を尾行し、監視するQuinn が、覗き穴の能所が目まぐるしく入れ替わって何もかもが如何わしくなった懐疑から脱け出し難いのも、具体が鎧う正体や「私」が擬態であることが秘密ではなくなって妥当要求が失効、隠れなさと暴かれなさが目まぐるしく入れ替わるからである。突如として教授の一歩一歩があてどないものからあざ笑うように意味深い意図の目をみひらき、また忽如としてあてどなく、しかもあてどなく見せかける意図に基づくかのようにして一歩一歩がfree fall して「世界が終わっている!」混沌の、次元減衰した断面として、世界の終わりの惰性が、110th Street、72th Street 、Riverside Park、Amsterdam Avenueの四辺を境目として、どんなにあてどなく彷徨っても越え出られないように現れる。それは、どこへも出ない混沌の断面なのである。(「City of Glass」P.Auster)
あてどなく見せる意図、従って意図の気配がするのであればその一歩はあてどなく、あてどないのであればその偶然の一歩には意図がかかっている、というようにどこへも出ないのは、Quinn の頭に教授の頭を呼び出し、その教授の頭にQuinn の頭を呼び出す、というように監視の能所が入れ替わるのである。Quinn がStillman教授の、日ごとの歩行のあてどない一歩一歩の軌跡が文字の形を描いて地上絵のように発信していることを、しかも単語の配列の、その含蓄(THE TOWER OF BABEL)を発見するに及んで気配がgrotesque なのも、発見するように管を通され誘導されている糸のないマリオネット状態、zo-oid状態、奇形嚢腫だからである。Quinn は呼び出しをくらって隠れなく、それはミステリに零落するが、ミステリの解読も管を通され誘導されている。Stillman教授のユーモアはどこへも出ないイロニーであり、その気配(grotesque )が軌跡の含蓄にもかかるのである。
Quinn を襲うStillman教授の地上絵の告白は、鶴女房や雪女房の告白のようにオマエノコトナンダゾと恐喝していないか。Quinn はStillman教授にどこかで会っているはずだ!その、正体の如きものを現す決定的瞬間のfree fall を発作的に模写した放心を、Quinn が水溜りに沈んだ深い空におそるおそる踏み込むように分節する限りでは、それは、物も言葉も形を成さない、物と言葉の区別がおかされた屑と断片と失語の砂漠であり、しかし何か意味のようなものが息を吹きつけられるように潜む、エロヒムの棲処である。


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