Sunday, September 13, 2015

碧空608 漠とした疚しさの気配

608 漠とした疚しさの気配  「Wakefield」(N.Hawthorne)もQuinn も、その窃視の偏執的持続は、日常の慣性系から離脱して、日常の日々の堆積が、まるで積み重なった書物が不意に一冊抜き取られることで瞬時に(しかし、何かスロー・モーションで、愚鈍に、しかも媒質となって)落ちて来るかのようであるが、透明になって(媒質となって、愚鈍に、何かスロー・モーションで)置き去りにされるのは、Wakefield(Quinn)に入れ替わっている。Stillman教授がブルックリン橋から飛び降りたことを思いがけなく伝聞する効果は、このことの、遅れて来た告知、というより遅れて来た予期、Stillman教授の身体の落下を共にするのである。  漱石の「道草」は、過ぎ去ってはいなかった因縁が尾羽打ち枯らした姿に身を窶して、隠沼のように、思いがけなく現れて来るのであるが、これも、覗き穴の能所が瞬時に入れ替わる(スロー・モーションの)落下なのである。不意に(しかし誘導されていたように)隠沼に出てしまう「道草」の、その落下は漠とした疚しさの気配(the sense of some guilt )であるが、責めの方向が「私」であるような零落ではない。「私」というものの選択能(free will )は冒されている。  地蔵菩薩が猖獗を極めるのは、こうした、漠とした疚しさの気配である。それが義の症状に零落したとしても、漠とした疚しさの気配と、その次元減衰した断面である義の症状の如何わしさと、飽くまでも責めからの逃げ場はない。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home