Monday, October 05, 2015

碧空622 世界の終わりから隠れ、中心の症状に零落する

622 世界の終わりから隠れ、中心の症状に零落する  物と場所が解離した(擬態の気配を消した)擬態では、物が妥当性を(直しさや「私」を(種を))鎧うことは、手段と目的が解離して物が効用性を(種の関心を)鎧うことでもある。この分業の癒着(手段の目的化)では、手段を現実にする目的が宙に浮いてしまう。手段しか現実にならないからである。漠とした目的の気配は、世界の終わりである。場所が潜伏しないのである。  しかし、彷徨うことからの休息のために(世界の終わりから隠れるために)世界が延長するとすれば、宙に浮いた目的は手段化して場所を占める。しかしまた、問そのものを思考しようとすることは、現実にはならないもの、現実になろうとすると潜伏してしまうもの、そのようにしてか役立たない責めというものを現実にしようとする。それは、仙術じみた苦行である。Quinn の彷徨は、目じるしにならない浮雲を目じるしにしようとして立ちおどむようなものである。しかしそれは、そうした浮雲を報告しないではいられない限り他の誰かを要請しており、種の関心を鎧っているのであって、この苦行はエラーなのではない。  物語は、漠とした記憶喪失状態から始まる。浮雲を目じるしにして物語の中を歩く影があからさまに記憶喪失状態であるのは、このことの(物語そのものが記憶喪失状態であることの)谺である。このことは、記憶にも夢にも当て嵌まる。unlearn は、種や全体に進化(零落)する目的の、その想起と忘却の区別がおかされているのである。  一方、物語が(夢の如く)何事もなかったかのようにまた一日が始まった、で終わるとすれば、死が(夢の如く)遺した痕跡としての地上が記憶のように全体を代表して、部分と全体が入れ替わろうとするのである。  つまり、物語は、隠れなさから隠れるために覗き穴を影武者のように鎧い、解かれなければならない問としての目的(命令)そのものを問う種の関心を鎧い、しかし解だけが現実であるから、駆り立てる力に滅ぼされるが、種の関心が他の誰かを要請する限りでカノンがかかるのである。  ところで、物語を駆り立てる力は生贄に向かう。生贄とは、種の関心に矛盾しない範囲で解がずれる即興の、その隠れなさを次元減衰して複写したものであるが、それは、発芽が事故のようでも意図のようでも過失のようでもある運としての突然変異から中心の症状に零落するのである。釘づけの磔刑の十字の、その釘づけの効果は、こうした零落がスロー・モーションから静止するまでに時間を拡大する劇化である。

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