碧空626 覗き穴の取り消し
626 覗き穴の取り消し
「最後の晩餐」をのぞく覗き穴は、取り消されている。つまり、それは鏡像なのである。鏡像は覗き穴が取り消されている限りで鏡像であるが、左右、前後が反対にならないようにすることで鏡像の気配は消える。
覗き穴をのぞくJesus Christの、その鏡像の気配が消えることで、静止画像になるまで時間を拡大された弟子たちの誰と入れ替わったのか早くも分からなくなる。弟子たちの間に出現しているJesus Christとは別の次元の地下的な目的が種として自らを想起すると同時に忘却する。それっきり見失われるかと思われる寸前で次の弟子が隣人として生まれ出ている。Jesus Christの野心は(そのようなものがあるとして)Judas Iscariotがそのような隣人として次の弟子であることである。つまり、誰もがJudas Iscariotになる気配である。というのも、ズーム・アップする窃視が取り消されたJesus Christの存在は自明ではなく、その鏡像は汎フォーカスで他の誰かを要請しているからである。その、他の誰かを、Judas Iscariotが代表するが、それは鏡像の気配を消すためである。
このようにして「最後の晩餐」で種に零落して顕れたJesus Christは、その隣人性が、窃視的擬装的失踪的metamorphosis2の圏域ではなく、贅肉となって輪郭を探す肥満体の圏域で露出的仮装的滞留的であるが、何か漠として「誰かがいる」薄気味悪い気配が「そして誰もいなくなる」気配に零落する。それが「And Then There Were None」の場合、犯人を探す窃視と犯人の窃視と死体の三重性のトリック(覗き穴の二重の取り消し)なのである。


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