碧空644 転位、逆転位
644 転位、逆転位
種の関心(con-science )が転位した媒質としての科学は、何もかも知っていることと何もかも知られていて導かれていることとの区別がおかされた(物と場所が解離しない)隠れなさから、暴かれなさに進化(零落)する。暴かれないというのは、物と場所、状態と位置が解離した虚構が基盤だからである。narratorの変装は極端に寿命の短い(従って極端に私的な)素粒子を発見し、発見のために器官を延長するにしても、それは暴かれなさの解消にはならない。
「他の誰か」を要請する限りで「他の誰か」は「私」というものの延長であるが、そのように「他の誰か」は「私」というものを延長する。
写真術は共感ではなく、同調するために器官を延長するのである。平均化のための(法則的であるための)器官の延長ではなく、提喩のための(歴史的であるための)器官の延長である。たまたま居合わせた(というより、呼び出しを食らった)時代の巷間に流れていた流行歌が、記憶を一瞬にして凍結し、一気にその時代の空気の解凍が起こってあふれ出す戦慄は、流行歌の平均性が劇化されたのではないし、実は極めて私的な素粒子を発見したようなもので、共感からは逸脱している。つまり、まぼろしが歴史的であるための発見(の頓挫)なのである。これは、環境に融け込んでしまって区別のおかされた身体に輪郭を回復させようとするような、届かぬ思いで、一体誰に告げればいいのだろうか。
この届かぬ思いは、透明であることやタイム・スリップする身体の輪郭の喪失のように、あるいは寂漠のように、覗き穴を盗まれている。逆転位してnarratorの媒質性が解けているのであり、届かないのは届けるまでもなく隠れないからである。


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