Monday, November 09, 2015

碧空645 反科学(anti-narrator)

645 反科学(anti-narrator)  種の関心(con-science )が転位したconscience(consciousness )を媒質とする虚構は、法(則)の支配、説得術がものを言う。そのnarratorの変装が科学である。呼び出しを食らったアブラハムを襲う戦慄は、身体が透明になるまでの、タイム・スリップするまでの隠れなさに面しての発作であり、隠れなさに身を曝す祈りのように、反科学(anti-narrator )である。同時に異なる場所を占めないということは、隠れなさの偽装であるが、そのような偽装を支える共感などは眼中にない。  科学技術の、その器官の延長の最果てでは、逆転位が起こり、このnarratorが最果てに出てしまっているのに種の関心に閉じ込められているのに驚かないではない。Gatsby(F.S.Fitzgerald)の場合もそんなふうだ。  J.Eckleburg の巨大な眼鏡の看板、自動車の(双眼みたいな)ヘッドライト、背後からGatsbyを狙撃しようとする眼、それら思わず振り返る闇の中の鏡に(映し出された眼に)見詰められて、隠れなさではなく、暴かれなさが浮かび上がる。愚かしいことに人生をかけてしまったかに見えるGatsbyの、一体どこが「romantic」なのか。どこが逸脱なのか。凡庸なこと例えば女に、しかしたった一人の女に、しかしさほど特別というのでもないむしろ愚劣な女に、しかしGatsbyのロマンチズムが光源も分からずに盲目的に選別した生贄に、ただ、特権的な近さで接触できるはずの女になるはずだったのにそのようになってはいないという、まるで孤島に置き去りにされたような事態を挽回するために、孤島を脱出したことを思い知らせるために、その後の人生がかかっててしまう何か復讐的な哀愁なのか。結果として、大きな壁である階級差を乗り越えようとする冒険は挫折するが、挫折しなかったとしてもそのことで一体何をしたかったのか。階級を踏み越えるための情熱がくすぶっていて、その情熱をただ燃え尽きさせて鎮める仕事が残っていたとでもいうようだ。つまり、解かれなければならない情熱の解ではなく、問としての情熱そのものを現実にしようとしたことか。だから、女の名を呼んでも口からは別の叫びが飛び出してしまう。階級を踏み越えようとする情熱が何処から転移した症状なのかは暴かれないが、鎮まると転移してしまう責めがどこまでも息づいていて、この戦慄は共感を踏み越える。

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