碧空667 本当らしさとしての日常
667 本当らしさとしての日常
資本主義的日常は如何わしい。日常というものは真偽がどうでもいいのではないのに、器官の延長をひたすら推し進める資本主義的経済では真偽はどうでもいいからである。
資本主義を推進するのは器官の延長であり、飛躍的な器官の延長としての分業、媒体、そして不断の技術革新である。その衝動は誰もが欲しがる商品の生産・消費であるから、解かれなければならない問は、一般性である。こうした価値の追究は、自ずから分業が二極化する。生産と消費に分業するのではなく、支配と被支配でもなく、価値が縮んでいることを埋め合わせるためであるかのように貨幣を大量に持つことになる少数の人々と、価値が縮んでいると知らずに元のままに使おうとするために価値の伸び切った貨幣を少しだけ持つことになる大勢の人々とに分かれるのである。現在の滞留を目一杯に引っ張って、伸び切ったところで日々は瞬時にはじけるように、貨幣の価値もはじける。現在の保持が一般化でしかないように、貨幣を現実にするのも平均化でしかなく、何か不易で一貫したもの、本当らしさとしての価値は一瞬にしてどこにもない。


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