Sunday, December 13, 2015

碧空668 問としての試練、解としての試練

668 問としての試練、解としての試練  社会の序列(分業)が仮に身分に準拠するのであれ、能力にであれ、運にであれ、功と罪の分業はさらに功と罪の各項で入れ子状態で繰り返される。縁生から脱け出せない功か罪かの寿命は短く、振動していつでも入れ替わる。さらには、身分や能力はその出自が運であることを打ち消そうとするが、功と罪の振り分けが致命的に制御不能であることを、賭博(distribute the money according to what happens(「The Music of Chance」P.Auster ))は模写している。そこでは、究極のcomplete privacy(絶対のえこ贔屓)が目をみひらき、序列というものの音もない崩壊を誘う。出自を打ち消したい社会秩序が博打を制限しなければならない(しかし制限に留めておく)妥協の理由である。  道徳はその出自である運命を打ち消そうとし、資本主義経済もその出自である道徳を打ち消そうとする。正当性や誠実ではなく一般性が法則であり、功罪の関心は利益不利益の関心に転位する。しかし、この一般性は種の関心であり、大量生産(規格化)も個別仕様(多様化)も器官の延長も種の関心から逸脱しない。

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