碧空681 「東京キッド」(この世の延長、究極の隣人)
681 「東京キッド」(この世の延長、究極の隣人)
「東京キッド」が、ステッキ、シルクハットに燕尾服という扮装であるのは、焼跡の青空に舞い上がったひばりが子供の姿をしているのに、どこから出て来るのだろうかと思うような野太い声を出してしかも裏声も操る、どこかフリーク・ショーで踊るステッキ、シルクハットに燕尾服という扮装の小人のようでもあり、ステッキ、シルクハットに燕尾服という扮装で西欧の文明を真似して外交の場に出る明治政府の小男のようでもあり、それは東京の浮浪児の何だか分からないデモクラシーがもたらすはずの豊かさの夢想であり、精華であるが「哀れな存在」であり、巷間に姿を顕わした昭和天皇のようで庇護したくなる。何故か。救世主のようなものだからである。究極の隣人であり、究極の平等を約束する死のようなもの、居合わせたところで何か栄誉になるのだろうかと思うようなものなのである。それは、単に人々が時代を占めるのではなく、私のひばり、というように人々を個別化すると同時に一般化する媒体(時代の延長)を占めるのであり、私がなにものであるかを問う(従って解かれなければならない)リスクを節約して平均化してくれるのである。
物が場所を占めることが実は物が所有(あらゆ)ることであるように、媒体を所有することは実は媒体を占めること、媒体を占める者が所有ることである。言葉の意味や貨幣の価値の実現や地位の権力の実現は、媒体を手放す瞬間で、押しなべて媒体の保存保持に空しく手段を尽くさなくてはならないのは、この瞬間がこの実現を取り消してしまうからである。
「東京キッド」に居合わせていることが戦慄的に迫るとすれば、その戦慄が模写するのは、この瞬間の(漠とした意味の実現がそのまま取り消されている)裂目である。エトスの解として時代を占める「東京キッド」は変装の気配を消しているが、時代と半ば解離しない「東京キッド」は変装の気配を消せない。媒体であることに変わりはないが、解としての媒体ではなく、解がこの世のものになるために媒質(この世)となって潜伏するエトスの延長としての媒体、半ばこの世のもの、半具体である。


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