Tuesday, January 05, 2016

碧空683 Jesus Christ的(誘惑的、虚偽的悪魔的)

683 Jesus Christ的(誘惑的、虚偽的悪魔的)  隣り合わせたJesus Christを写真撮影して現像しても写っていない。  死体は写っていても死は写真撮影を逃れ去る。この世の一瞬を占めるのは死体であって、死体の占める場所あるいは場所の延長である死が占めることはないのである。  言葉や貨幣が媒体としてはたらく一瞬も、写真撮影を逃れ去る。半ばこの世のものであり、その一瞬を事実として扱うには信仰のかけらがかかる。Jesus Christも死もこの世のものとして扱うには信仰のかけらがかかる。それは儀式や慣習のようなものとなってこの世に入り込み、複写が極まって衝動のようなものになる。つまり、Jesus Christや死がこの世のものになるために二重に潜伏する霊的形式になる。  Jesus Christが個に変装していることが誘惑的であり、虚偽的悪魔的であるのは、個を脅かすものこそJesus Christ的なものであるからである。死や救世主は言葉や貨幣のように世に出回る。しかしそれが平均化するのは意味や価値ではなく、空虚である。それは、意味や価値の欠如としての空虚ではなく、この世のものを現実にする場所すなわち影としての場所を現実にする場所(場所の場所)すなわち影としての意味、場所の延長としての空虚である。つまり、この場所の場所の浮上は究極の個別化(complete privacy)で、究極の平均化との区別がおかされている。  その空虚が抱き竦めるのは単に空虚だからではなく、意味深さとの区別がおかされているために蹌踉めき立ち竦むのである。死や救世主は道のように導くが、ずっと続く道のように蜃気楼でもあり、踏み出すそばから崩れ落ちる。隠れていたものが顕れる意味深さを、空虚を以て埋め合わせるというふうだ。

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