碧空687 救世主と隣り合う
687 救世主と隣り合う
救世主と隣り合うcomplete privacyは、何処に焦点を絞っても微分しても何かを見落とすことになるようで地面を探って宙に足掻く、そのようにして転移発作的に汎フォーカスに、甲虫になる。
甲虫になるまで空想する。空想していたら甲虫になることに気づいたのである。この空想は洞察と区別がつかないが、本質や法則が組成する擬態が秘密であること(擬態の気配を消すこと)を断念している。ところが「父への手紙」(F.Kafka )は野心的である。本質や法則に肉薄して虚構の気配を消そうとしているのである。あるいは、空想が不足で甲虫になれないでいる、とでもいうか。
ヘブライ文字に転写された東欧イディッシュ語の発信が、イディッシュ語が高地ドイツ語の文法と語彙とを基盤とするためにドイツ語の耳で理解できればこそドイツ語に翻訳できないように、奇妙にもドイツ語を通して関心を平均化されながらも馴致を拒否している。内部に取り込まれながらも外在していて境界上のフォーカスを保持しているのである。これは、F.Kafka の空想(考察)が空想や考察という一般的語彙に解消しながらも、本質や法則に迫ることを断念するほどにも汎フォーカスであることに酷似している。究極の個別化、一般性を保持しない(他の誰かを要請しない)原初の言葉であり、失語状態である。
この失語状態の領域は、complete privacyである。しかしそれは、この世の同種のものを同種のものとして解釈できないために言葉が或る具体に固有名詞のにように張りついてしまうにしても(従って)その具体が同一のものとして解釈されるほどには失語状態を脱け出しているのである。ところが、そうした具体が「私」である場合、それが何か一貫して不易な「私」というものの内在性であるかのようでいて外在性とまでは言わぬまでも外来性(他の誰かに呼び出されなければ成らないこと)に直面してしまい(擬態の気配が消えないために)「平静ではいられなくなる」。
東欧イディッシュ語圏の詩の朗読の夕べの「イディッシュ語についての講演」でカフカは、こうした混乱に面して「恐れる」とまで予言している。イディッシュ語がなぜか分かることの内在性に面しているようでいて外来性に面していて、イディッシュ語も「私」も種が出現する如く出現する気配が消えないままに半ばこの世のものである。同じようにして、ヨルダン河の岸辺でヨハネは、予期されていながらも突如、鬱然として(原初の失語状態で)the Christが見分けられるのである。
Jesus Christの数々の奇蹟は、鶴女房が異形の影を落として正体を告白するようなものであるが、予言は、鶴女房や雪女房の禁止が反語的に誘惑して告白に駆り立てられているように、即興的に素材を間に合わせてシナリオに矛盾しない範囲でずれるように仕込まれている。その成就の衝撃は、むしろ民族の関心の即興の衝撃、思いがけない(が予期していた)ということである。


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