Wednesday, January 27, 2016

碧空698 いつか来る救済の話の系譜

698 いつか来る救済の話の系譜  それでは、いつか来る救済とは、何か見えなくなること分からなくなること、じかに触れて何に触れたか分からずにぞっとすることなのだろろうか。(碧空697 孫次郎)  薬局に犇めく人々が重力に身を委ねているのは駆り立てる魂に身を任せているのであって、そのためにその動きは事情に精通しているかに見えるのであるが(待っていたのだから誰だか知っているはずだろうに)なかなか顔が見分けられない、といった精通に過ぎない。しかし、それは、せめてじかに触れたいと思って手をつかみ、ぞっとする、そうした精通なのである。  「薬局の奥」には隔離された「産屋」のようにずうっと年をとったものの気配がするが、それは、いつか来る救済の話の系譜に於いては、見てはならない、という反語的禁止がかかって誘惑する異類の姿に身を変える。同じようにして、G.Moreauの「踊るサロメ」の裸身には「入れ墨のサロメ」がかかることになる。  一体、いつか来る救済は、ヘローディアスの如き医師なのか究極の「隣人」なのか。三人の人影が奥行を塞ぐかに見えるのは、三人の人影が奥行そのものだからである。沈み切らない女影は「踊るサロメ」の裸身にかかる「入れ墨のサロメ」のようなもので、その漠とした海の気配穢れの気配「狐憑き、類、生首」の気配のために男のエネルゲイア(一人か三人か区別のおかされた人影)は貪婪に女性的なものを身につけているように見え、「顔は平たく、あけっぴろげであり、鼻はひしゃがれて、たったいま押しつぶされ、そのため鼻孔がよじれながら元に戻ろうともがいている」。究極の隣人として顕れることはすなわち姿を晦まし、不滅になるのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home