碧空696 槲に刻まれていた名前は二つ、一つは「ヨーゼフ」、もう一つは
696 槲に刻まれていた名前は二つ、一つは「ヨーゼフ」、もう一つは
G.Moreauの「入れ墨のサロメ」の、その入れ墨と見えて踊るサロメの裸体にかかるものは、霊的形式がこの世のものになろうとして潜伏し切れずに漏洩しているのであり、この世のものになるために二重に潜伏することの、その鬱勃・混沌の次元減衰、しかし「メンソレータムを手に持つリトル・ナース」のように全体が部分に変装して先立つ如くに希望の症状、というよりは、種の夢(霊的抽象)がこの世のもの(具体)に変装して先立つ如くにサロメの舞踏は金縛り状態なのである。それは、見てはならない、という反語的禁止があるかのように落ちる影としての「狐憑き、類、生首」に肉薄して半ばこの世のものである。
カフカの空想も、極地や鉱山で生埋めになって救い出されなければならないといった状況なのではなく、そのような状況にある存在を外から救い出さなければならない位置に生埋めになっている、というように位置が状況に変装して先立つ如く、限りなく後退するが、それは脱け出すことではない。汎フォーカスの甲虫であることは、「自由、孤独、思考」をこの世のものにしている影が、すなわち、見てはならない、という反語的禁止があるかのように人知れず落としている影が、「狐憑き、類、生首」であるのでまるで「叩き起こされ」たとでもいうように面食らっているのである。思えば遠くまで来たはずなのに、気がつけば「ヨーゼフ」に出てしまっている、同級生だった小さくひどく醜いヨーゼフ、腕力と器用さは身につけているのに醜悪さを埋め合わせることにならなかったヨーゼフ、これまで思い出すこともなかったヨーゼフになぜか出てしまっている、あるいはまた、戸外ではなく室内だというのに雨に降り込められ、雨粒に頭を打たれないように帽子や傘や板を翳せば翳すでなんとその下で雨が降る、というように性懲りもなく「叩き起こされ」てしまっている。
日が暮れかかったのでもう断念しなければならない、あるいはもう総括しなければならないということなのか、槲の木に刻まれていた名前は二つ、一つは「ヨーゼフ」、もう一つは刻まれていたのではなく、見てはならない、という反語的禁止があるかのように「ヨーゼフ」が落とす影である。
もう一つ刻まれた名前も知っているはずだがなかなか見分けられない。「ヨーゼフ」に「低く押さえつけられているか、沈められたか、あるいは自分で沈んでしまった」か。


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