碧空702 楽しげなものの正体
702 楽しげなものの正体
因幡のシロウサギが素兔と表記されている覆面振りもそうであるが、その赤裸にひんむかれたシロウサギが(吹き替えられたように)言葉を話すスーパー・ヴォイスにも、重波のように退屈で不気味な悠久がかかる。それは、じかに触れて何に触れたか分からずにぞっとするというよりも、寄せては返す波のようなノイズと静寂と光の区別がおかされて惚恍とする。波は打ち寄せ、浜辺に魚が上がって来る、投げ返すとまた魚が上がって来る。同一の魚かどうかはどうでもいい、寄せては返す波と繰り返し上がって来る魚の区別はおかされているのだから。
直しさや「私」といった擬態は種の命令にとって自然な、すなわち自然のもう一つの解であるが、化も擬態も間に合わせに欺くことであるために嘘には過剰反応し、しかしその拒否は反語的禁止である。なるほど欺くことは罰せられ押し込められようとする。しかし、因幡のシロウサギは楽しげに鰐を騙して海を渡る。騙すことは器官の延長の、引いては技術革新の始まり、楽しげなものの正体だということである。
一体、そこへオオクニヌシが通りかかることは、医療としての救済なのだろうか、それとも隣人としての救済などということがあるものだろうか。少なくとも、楽しげなものの正体の庇護ではある。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home