碧空706 「部分的な物語」(F.Kafka):隠喩的、脱隠喩的
706 「部分的な物語」(F.Kafka):隠喩的、脱隠喩的
そもそも自分自身の顔を見たものはいない。眼球や視神経を潜望鏡のように延長して、しかも向きを変えたとしても、その、未知の土地の如き顔は目を欠いている。鏡は、こうした器官の延長の試みであるにしても、他の誰かを要請する。自分自身の顔が私的ではなくなるし、左右が倒錯する代償もある。まるで、コレガオマエナンダゾと押しつけられ、騙されてしまうことを軽減する気休めのために左右が入れ替わって、騙サレナイゾと抵抗するふうだ。
長身、猪首、頑健そのものだが足に障害のある牧師が、玄関を塞いでいる二人の見張番のために中へ入れない。そこで牧師は、女中を連れて三階に住んでいる「レベッカ・ゾウファル」の弟であると騙り、通行証とする。しかし虚構は、自在に騙せるものではない。それどころか本能的で、この世のものになるために予期的に疼き、この世のものとなるや潜伏して霊的になる。そんなふうにして、虚構が厳密に守られるのではないが老嬢「レベッカ・ゾウファル」は、「アルノルト」と牧師の後ろから呼びながら指で牧師の肩を叩いて姿を現わす。背のまるくなった老婆、暗緑色の、目の粗い織物ですっぽり身をくるみ、しげしげと牧師を見詰めるが、目で見るというより口のなかにおぞましく一本だけ残った、長く細い歯が凝視する。
この凝視は、霊的なものが見えるようになるほどの大視症の極で、のぞき穴が盗まれていることなのであるが、おぞましく一本だけ残った細く長い歯は、牧師の目の鏡像でもある。つまり、鏡像であるにせよそうでないにせよ、この「アルノルト」という(後から指で肩を叩いて隠れなくする)呼び声の、この変装は、鏡なのか鏡像なのか、隠喩なのか脱隠喩なのか、区別がつかない。
そもそも、自分自身というものは部分が代表し、そうした部分と部分の間に出現するに過ぎない。全体は霊的である。それは、予定調和的に出現すると同時に潜伏するのである。提喩は種の出現(平均化)がそうであるように脱隠喩である。「私」というものも種のように出現するのであるから、そこでは脱隠喩的である。
「アルノルト」と呼ぶ声が後の方からして、指で肩を叩かれる。「私」は「アルノルト」なのかといった疑念は起こったりはしない。しかし「アルノルト」と呼びかけられて不随意に反応してしまう、それは「私」が身代わっている「委託」の矛盾、疑わしいのと何の変わりもない。


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