碧空710 薄明のなかの旅行、楽しげなものの極意
710 薄明のなかの旅行、楽しげなものの極意
「ぼくの身に起きたこと」の衝撃(碧空709 孫次郎)を告解のように誰かに話してみたい。しかしそれは、他の誰かを要請しない。しかしまた、その中間的、両棲的、痙攣的な薄明は孤独とは何か違う。
医師ヘローディアスの誰何に男が「隣人です」と応答するのは(碧空697、698孫次郎)、乞食音楽師が「イタリア出身です」と応答して「ぼくの身に起きたこと」の、その衝撃を前兆としている。つまり、「イタリア出身です」を占める意味としての「隣人です」が現実になるために潜伏したしるし(意味の場所)が「イタリア出身です」なのであり、前触れていたのである。
受身と自発と尊敬と可能が区別されないものにじかに触れて何に触れたか分からずにぞっとするのは、神に迫ったのである。ヨハネがJesus Christを前触れるのは、受身と自発と尊敬と可能が区別されるように展開する限りで、霊的な気配は屋根裏部屋や地下や廃墟など忘れ去られた場所の水の気配に零落する。
Jesus Christも貨幣も、誰とあるいは何と入れ替わっているのか分からないが、Jesus Christは姿を晦まし、貨幣は姿を現わす。しかし、魚の口から獲た一枚の銀貨が、同一のものであるかどうかは疑わしい。同種のものとも入れ替わって「私」のように欺く。一体、救済は、医療なのか、隣人性すなわち隠れなさなのか、それとも貨幣のような代謝能なのか。
貨幣の模写能は、情熱からは飽くまでも遠ざかり、流れ(法則性や歴史性)に逆らって泳ぐ、ひとしきり逆らって身を流れに任せる。これが楽しげなものの極意である。
薄明のなかを旅行中のJesus Christはニュートリノのように何もかも通り抜け、Alien の幼虫のように宿主を食い破って飛び出すが、この旅行を「私」というものが辛うじて阻もうとする。


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