碧空725 「変わり易い力」(「日記」1911年、F.Kafka)
725 「変わり易い力」(「日記」1911年、F.Kafka)
紀行の極意が体験から自由になることだというのであれば、日記の極意は「紀行」的であることである。日記は体験を変母音に圧縮するようでいて、日々の体験の素描はまぼろしにならないように忽ち武装解除が及ぶ。この武装解除、体験からの自由は、日記というものに潜む「隠し絵」である。虚構の気配を消そうとする日記というものに潜む「変り易い力」は、一転して体験の素描を虚偽にする。
カフカが義姉妹と会って、同時に、両手がどちらも右手であるかのように二人と握手する。「同時に」とは、左手から右手が分身するような二重生活である。
「変わり易い力」は、こうした振動、二重人格的である。一体、素粒子の観測、検出は同一のものとしてなのか同種のものとしてなのかの区別が冒されないようにするには、その寿命が短か過ぎる。寿命を鎧っても「同時に」寿命が脱落する。尽きるのではなく解けるのである。これは、種というものが出現すると「同時に」逃れ去ることが、寿命には潜むということであり、寿命というものの、正体の知れない「自信」の源泉なのである。
このようにして、カフカの作品は「同時に」日記なのである。個がまぼろしや虚偽でないように種に変態する、この解脱は、個がまぼろしや虚偽の速度に達するのである。体験から自由になることが自由の剥奪であるというような自由、孤独、思考の危機、この、救出を待つ症状に潜む霊的形式は虚偽を底無しに吸い込むことになる。


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