碧空726 変態を扱う冒険
726 変態を扱う冒険
この世のものになり切らない半具体は、神経衰弱のようなもので、次々と虚偽を重ねることになる。
この世のものになろうとして解離し切らない、両棲的であることの、その救出を待つ症状(奇形嚢腫)を、俳優は職能としている。戯曲の演奏は、部分を全体にまで拡大し、減速して体験に連れ戻そうとするが、体験がまぼろしや虚偽にならないように劇化して足掻く。劇化とは、極端に私的なものを隠れなくしようとする拡大である。
Zuerich を舞台とする三幕の夢を、カフカは見る。この三幕は展開というよりは方解である。つまり、圧縮された問としてのZuerich の三つの解凍である。Zuerich が問としての精神である限りで、空気や内臓のように潜伏しようとするが、潜伏し切らない。夢はこの世のものになり切れずに「規定された役割を弛め、解きほぐし」、Zuerich を「風にゆらめくように身にまとう」。これは、根こそぎ「劇が空中に漂う」如くであり、夢の任務は俳優の演技の如く救出を待つ症状である。
第一幕は、グレーハウンドのようなロバの夢、第二幕は、救世軍のような集会で知り合ったイギリス人の夢、第三幕は、カフカとブロート兄弟には駅までいってやっと荷物をまとめる癖があるという夢である。
グレーハウンドとロバの混合種は、更には銀色に光る胸と腹を見せて二足歩行する。余ったもう一組の二足から手が出現することになる二足歩行は器官の延長の第一歩であるから、この家畜と人間の二重生活は、そうした選択の決断と結果の記念である。イギリス人は、その目を見張る技術革新が産み出した優秀なフランネルの覆面をしていて、従ってイギリス人であることを隠しているのではない。家畜は機械に素材を劇的に変え、命令と服従の分業にイロニーともユーモアともつかぬ転位が起こっていることの霊的抽象の解凍が、この覆面のイギリス人として顕れた二重生活の、救出を待つ症状なのである。
カフカとブロート兄弟の奇妙な「癖」も、器官の延長や技術革新や分業を巡る二重生活の、この世のものになろうと足掻く症状のはずである。分業がこんなにも遠くまで驀進して来るには、言葉や貨幣などの器官の延長としての媒体が普及しなければならないが、その基盤はこの世のものと種の関心の解離である。しかしそれは、選択して舵を切ったというような賭けに出たというよりは、擬態(直しさを鎧う虚偽)の発作が結果として大きな冒険と発達に繋がったのである。しかし、この解離がまとうこの世というものの、正体の知れない「自信」はたしかではない。解離の症状は、解離しない状態を脱け出すかに見えて変態しているに過ぎないからである。
カフカとブロート兄弟は一体どこへ行こうとしているのか。三人の「癖」には何が潜むのか。出発は決まっているが、ぎりぎりまで旅支度には取り掛からない。三人の扱う文学の冒険は、言葉を扱うにしても、体験がまぼろしや虚偽にならないように足掻くにしても、何処かに到達するどころか一歩も踏み出していないのに連れ戻されてしまう予感、出発がとっくに起こっている(従って出発は起こらない)という予感のために、狼狽から転移発作的に(頭を掻くように)出発にそなえるのである。文学の冒険は擬態が扱う法則や歴史ではなく変態を扱い、一旦この世に虚偽や陰謀や夢が入り込むともはや底無しになるような冒険なのである。この、解離し切らない、救出を待つ症状に潜む変態(振動)が、三人の冒険「癖」にかかるZuerich の気配であり、Zuerich で密かに即興的に繰り広げられる三幅対の二重生活がこの世のものになり切らない症状は、Zuerich の孕む変母音がZuerich を代表するというような霊的形式を透視している。


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