Friday, March 11, 2016

碧空727 透視、透視不能

727 透視、透視不能  意識に於いては、鏡と鏡像が解離する。具体が映し出す緊張(霊的抽象)が場所となって潜伏し、この場所が具体を映し出す、この鏡像の奇妙な、正体の知れない「自信」は、縁生の効果である。  夢は日常性の「自信」を批判する。  文学が変態(「変わり易い力」)を扱うのは、夢を扱う如くである。この世のものとしての夢、この世のものになり切れずに救出を待つ夢、霊的形式を具体として透視する夢、この夢の三相に変態の三相は対応している。  「階段の眺めが、今日ぼくをとても引きつける。もう朝早くから、そして何回も、チェコ橋の右手から下の船着き場へ通じている階段の右の手摺の、ぼくの窓から見える三角形の切り抜きを見て楽しんだ。階段は即座にヒントを与えでもするように、ひどく傾いている。そして今ぼくは、川の向こう側の、水際までおりている斜面に階段を見ている。それは以前からそこにあったが、秋と冬だけ──その他の季節にはその階段の前にある水泳学校が取り片づけられるので──姿を現わし、そこの褐色の樹々の下の、暗い草の上に遠近法をとって横たわっている。」(「日記」1911年10月28日F.Kafka)  同一のものと同種のものも「変わり易い力」である。この「階段の眺め」は同種のものから同一のものへいつの間にか変態する。この変態が、同種のものや同一のものの「自信」を批判する。更には、霊的形式を具体として透視する夢のように、「階段の眺め」にゴーストがかかる。長目の効果に包まれるだけでなく、絶景のように霊的で宙に浮くのである。  仏ケ浦や浄土ヶ浜のように阿弥陀や仙や鬼を、あるいはdevil やSt. を冠する絶景も、日常の光景も、「変わり易い力」が振動・変態する。「誰かがいる」というような薄気味悪い気配が迫る(隠れなさが蔽いかける)仏ケ浦、救出を待つ仏ケ浦、そして観光地に零落する仏ケ浦、というようにである。百年にひとたび姿を現わす都として霊的気配を透視するニルスの大視症のように、秋と冬だけ姿を現わす「階段の眺め」として透視する、その、見えない霊的なもののズーム・アップが、透視不能に変態するとすれば、それは、「階段の眺め」を霊的気配が映し出して「階段の眺め」が鏡像になるのである。迫真とは、こうした透視不能である。ところが、透視不能に肉薄して透視不能が解けても何か迫真がかかるのである。

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